漢・・・ 篠之井公平氏を 偲んで

パリ篠ノ井・小林
小林カメラ

   亡くなってもう四年になる

 この人との出逢いが無かったら今の僕は無いと言っても過言ではない。

 映画プロデューサーであり、日本シーラカンス学術調査隊の代表である。

シーラカンス1

  出逢ったのはかれこれ20数年前、湘南の同じ辻堂駅が最寄り駅だった。
  父との知り合いでもあった。
 
  田口哲監督の下、随分色んな作品に従事したと聞く。
  映画界がぐらついた時、独立プロを起こして、五社協定(東宝・松竹・日活・大映・東映)を崩したといっても良いだろう。

  その後、末廣恭雄教授と知り合いシーラカンスに魅せられて、その後の人生をこの幻の化石怪魚に賭けた。それは決して見世物やイベントではなかった。

  彼の映画への持つ夢、そして個性であり思想だろう。シーラカンスをする前には羽仁進監督と組んで『愛奴』を撮り、ベルリン映画祭グランプリを取る大プロデューサーであった。

  それも、やとわれではなくフリーなのだ、ここがあの人の凄い所だった。

  僕が知り合った時、篠之井氏は50代半ばだったろう。
  野武士のような瞳、それでいてしゃんと背筋を伸ばし、品があり礼があった。
  一見怖そうに見え、また付き合いにくそうにも見えた。
  なかなか懐の深くそれでいて心の芯はとっても優しい人であった。

   しかし、当時はそんなことは知る由もない。


後で聞いた事だけど、どうして僕を調査隊の一員へ・・・
湘南のカフェでお茶を飲みながら遠くの空を見て・・・

    君はね、良い目をしていたと言ってくれた。

小林と子供
コモロ
 
コモロ国旗2

  コモロ政府と10年という交渉の期間を待って、第一次シーラカンス学術調査隊がアフリカのコモロ諸島に入ったのは1981年12月4日と記憶している。
  何も判らない国、非常に貧困であり、またイスラム原理主義の国でもあった。
  そしてフレディリック・フォーサイスの『戦争の犬たち』の舞台でもあった。
  当時の大統領は主人公その人、アーメッド・アブダラ大統領だ。

クリスチャン   数少ない在留外国人の中にひとりのフランス人と出逢いシーラカンス捕獲・映像撮影・日本国内への移動へとドラマは展開していく。
  そのフランス人、クリスチャン・オラガレイとの友情は側で見ていて国を越えてどんなに強い絆に結ばれていたことか・・・今は察するしかない。
 第一尾目はクリスチャンからの友情の証としてのプレゼントだった。
 
第一次隊が帰国しようとしていた12月31日深夜に調査隊が捕獲を頼んだ島の各漁村の一つ、 北部のミッアミウリの漁師の針に約4億年前から子孫を残し続けて来た生きている化石と言わるシーラカンスが掛かった。
  これまでの発見のうち、最大級のものだった。


シーラカンス3
椰子の浜   北部から車を調達して夜明けの道を調査隊の宿舎まで持ってきてくれた。
  夜明けの清清しい熱帯の朝の空気とヤシの葉にそよぐ風の音を聞きながらキラキラする村の朝に浸っていた時、遠くからゴンベッサ・ゴンべッサと叫びながら僕をめがけて車は走ってきた。

  最初に目にした生のシーラカンス、深緑でところどころに斑点があり、まさに今まで生きていた様だった。
  生命体の塊という印象しかなかった。

  ここから篠之井さんとの長い人間的な付き合いが始まるのだ。
  第二次隊にも誘って頂いたが「黒潮物語」製作時だったのでお断りしてしまった。

シーラカンス1
再び、第三次隊からコモロ諸島へ・・・丸5年間同行するようになった。
シーラカンス4
シーラカンス2
特に三次隊と四次隊は大変な成果を挙げた。世界初の海中生態遊泳映像を撮ったのだ。

  フランス・フィガロ紙の一面にも報じられ世界中のメディア世界中の魚類学・古生物学の大学・機関からの問い合わせが殺到した。
 ナショナルジオグラフィックには 『これでシーラカンスの謎は解けた』 とも発表されたものだ。

  折りしもコモロ大統領アブダラ以下閣僚11名が来日し、昭和天皇への拝謁もし、シーラカンス談義をしたと聞く。

  ちょうど宝塚のファミリーランドで大シーラカンス展が開催されていてそこにも大統領一行は来て、コモロ国の紹介、シーラカンスの謎をシーラカンス学術調査隊は世界へ発表はしてくれたと感激で喜ばれた。

調査隊
 その後、何度もコモロを訪ねた僕達をこの国の人達は友人のように受け入れてくれた。
赤いテーブル

この大統領も5次隊の帰国後すぐに暗殺された。
イスラム原理主義なのか、国内の権力闘争なのか、また外国からの圧力なのか・・・

小林・篠ノ井他
 生命の神秘を探って、この大自然への脅威に思いを馳せて篠之井公平は情熱を燃やした。
壁の前
  国内にいるとき、時間があるときはたまに海の側でお茶を飲みながら映画の話、コモロの話、人生の話をしたものだ。
  その中から多くのものを学びまたこの人の優しさを感じたものだ。

  何時か京都へ一緒に行ったことがある、夜の二条城の前で立ち止まり『監督、ここで昔キスしてね・・・あの女(ひと)も他の人も幸せになっていたら・・・良いな』とつぶやいた。
  その優しさに感動したものだ。

  また、何時もきちんと着こなして本当にお洒落だった人が息子が膠原病の疑いで病院にいった時、自転車で髪を振り乱してきてくれた。
  そして大丈夫・大丈夫と僕のいない時だったので妻に何度も言ったそうである。
凱旋門
パリの街角

  パリで何時もお互いにネクタイを買い、交換した。
  そしてエールフランスの機内でのあのお茶目な仕草。
  毅然としてまた、人々の中に入り人間と立場をしっかり守った人だった。

  一番の想い出はとある水族館が裏工作してコモロ政府に取り入り、シーラカンスの捕獲をしようした時、パリのホテルから水族館と組んでいた日本の商社の担当に電話した。
  君もここに居ろと言われてその一部始終を聞くことになった。
  篠之井氏は手を震るわせ相手に手を引け、何をしているか判っているのかと何度も繰り返して言った。その迫力は今も忘れられない。
  この姿とこの信念を僕に見せておきたかったんだと感じた。
  あんな姿の篠之井氏は見たことが無かった。

     映画とは・・・仕事とは・・・男の仕事とは・・・きっとそう言いたかったのだろう。

  何時も 『仕事はテクニックでしてはいけない。真心でしようぜ』 また、『人の縁は切ってはいけない』 逢う度に家庭礼拝集をずーと持ってきてくれていた。

    どれだけ教えられ、どれだけ大切にしてもらったことか・・・

  コモロの小高い丘で一緒に眼下に見えるハハイヤ空港を見ながら、『監督、ここで映画を作りたいね。ラストはこの空港になるよね。』『はい、男の友情物を作りたいですね、そしてこの空港を飛び立つエールフランスに向かって・・・ララ・ノノ とタイトルですね』『うん、良い映画になるね』インド洋を望むその丘からじっと遠くを見つめていた。
俯瞰
小林と浮浪者

  その夢も出来なかったが違う形で出来ていくだろう。『自分は自分のやり方で・・・監督は監督のやり方で・・・』書いても書いても足らない。

 一緒に行っていた頃によく逢った青年イディがコモロの今は副大統領になっている。
  篠之井氏の死を伝えたら 『同志をなくして寂しい、しかし未来がある』 というメールが来た。
  天国にいる代表・・・ 聞いていますか イディの言葉と貴方が残した心はコモロの若い政治家にちゃんと伝わり、そしてコモロの人達の中に生きていますよ。




  もう一度僕はあの島の黒き溶岩台地に何時か立ちます。
  僕らが求めたゴンベッサ そしてインド洋に吹く風・ミストラルを貴方の分まで味わってきます。

 

小林と子供達
子供

   貴方に男の美学を見せてもらいました。

          ゴンベッサよ永遠に(小学館) に篠之井公平の事は書かれている。

                                               小林 一平