親父

 

 

 

 

 

亡き父 小林 大平・・・

 昨年 (2008) の秋のある朝 父は長い91年の生涯を閉じた。

 愛知県三河の織物屋の六人兄弟の一番下の子として生まれた。祖父嘉太郎は一代で築いた商売で家も家業も上手く行っていたが、その豪放磊落な性格ゆえ、父が六歳の時に暴飲暴食で肝臓を病み亡くなったらしい 心が大きくしっかりした母 (僕にとっては祖母) が後、商売も家もしっかりと切り盛りしたらしい。
 生前、父はよくその母のことを褒めていた、大きな人だったと・・・単なる親子の情から言っていたのではないように思う。

 地元の西尾旧制中学校の頃から映画に憧れていたらしい。その理由は聞きそびれてしまった。卒業後、家の商売を三年手伝い、そして日大芸術学部映画学科に入学する。
 日大では陸上部に属し当時戦前だが棒高跳びでは世界の八傑に記録が残っているらしい。

  大学を出てから東宝映画演出部に入り、山本嘉次郎監督の一番下の助監督として活躍していたらしい。背の高い父はタイロン・クーパーと呼ばれながら映画の全てを東宝という素晴しい環境の中で学んだことだろう。兄弟子には黒澤明監督、谷口千吉監督がいた。その他、島津保次郎・五所平之助・成瀬巳喜男・衣笠貞之助・豊田四郎・山本薩夫・亀井文夫・今井正監督というそうそうたる監督人なんかと現場や製作会議や脚本会議等を通して映画とは・・・監督とは・・・を学んだことでしょう。
  また、カメラマン・照明・美術・大道具等の日本の優秀なスタッフ達とも一緒に東宝という飯を食い映画とは・・を身に付けていったと思います。
  戦争をはさんでの時が彼の充実した時期だったのか知れません。

  終戦後にはじまったレッドパージ、東宝は軍艦こそ来なかったがと・・・言うほど激しい労働争議。
  昭和22年に僕が生まれた、父親となりさあーこれから良い映画を作ろうと思っていた父だっただろうが、270名の多くの仲間と共に東宝を解雇になり、映像など無い世間に放り出された。しかし多くの仲間と捨てきれない夢(映画)仲間と独立プロという世界で情熱を燃やしていった。

 母との離婚もこれがきっかけになり僕が五歳の時に離婚にした。母は生活の苦しい中、将来の見えない火の玉のような男について行けなかったのでしょう・・・ぎりぎりの選択ではなかったかと推測する。僕は父に引き取られ父の郷里で六年間暮らすことになり中学入学と共に東京へ帰ってまた、父と暮らし始める。

電光空手打ち

 父は生前こんなことを言っていた。
  ママはね 『貴方には映画がある・・・』
 東宝を出てから東映や日活と流れて行った先輩や友人からの依頼でシナリオを書いたりしていた、高倉健初主演 「電光空手打ち」 もそんな作品の一本だ。

 また、東映教育映画部が誕生した頃から教育映画に力を入れていく。当時、一本のシナリオを見つけてこのシナリオを映画化したらと東映教育映画に進言したとも聞いた。その作品は「蜂の子」といい山田洋次監督の松竹に入った頃のシナリオだったらしい。山田洋次監督にそのことを聞いたら「ああ、あれが映画化されてこの世界で生きていけると思いました」と回想していた。
その後東映教育映画で脚本・監督した 『からす物語』 が教育映画祭特別賞を受け、その受賞の電報を受けた父の顔は忘れられない。

  そして、フリーで仕事をしながら自分でプロダクションを起こしたりして文化映画やPR映画、テレビコマーシャル等を作っていた。
その後、僕も同じ道を進み・・・何とか一人前になった頃、一緒に沖縄県の復帰後初の映画 『沖縄、その心と美』 を父が監督・僕がカメラとはじめてコンビを組んだ。

 日本の子ども達への映画に何か違うものを感じていた時、自分達が考える子どもの映画作ろうかと同じ思いが重なって 『翔べオオムラサキ』 という作品を作った。父が脚本と監督、僕が生意気ながらプロデュースをした。その評価は予想以上に文部科学省特別選定という一番の評価を受けて、オオムラサキを含む自然保護運動へとこの作品から発展して行った。この作品での父の監督としてのキレは大変な感覚であったし本当に素晴しい出来ばえである。

 その後、『黒潮物語・海からの贈りもの』 を一緒に作った。当時69歳だったのでは・・・ 僕にとっては、プロデューサーとしては少々不満だったが、ラストの 『ああ 白い海だという』 あのシーンには感性と芸術性の高さに驚かされたのと大自然をも含む深さを感じた。

流木

 50歳位から趣味ではじめて流木に全神経とその隠されたものの中から引き出す自然界の美を夢中に取り組んで行ったようだ。
 何千個と云う流木や木片をひとり海で拾い・・・その自然が作った形に魅せられ漆という物にも出会い本当の芸術作品へと昇華させていった。
 あの深夜にも木々と接した情熱。
 そして出来上がった作品こそ 『小林大平の世界』 だと思う彼の持っている真の優しさは作品の気品と暖かさに出ている。

作品1
 

 

 今、何千点と僕の家にあるが、ふとその作品を見ると人生は短し 、芸術は長しという誰かの言葉がその通りだと思うようになった。

 

                                    

水差し
水差し
親子  その生き方をしっかりと見つめながら自分も一直線に生きてみたくなった、不器用でいい 「そんな男の大人になって見たい」 そんな事を生き様で教えてくれたのも父なのだ
 父と過ごした介護の日々や子どもの頃を想い出すと・・・渋谷の代々木・大山球場へ何時も草野球を見に連れて行ってくれた幼児の頃を思い出す。その帰り道は父の背で何時も寝てしまった。父の大きな背中が今も一番父と感じてしまう。
 父が持つ下駄の音がいつまでもカタコトと聞えているようだ。

      一人の男の一生は・・・
      息子を育て、孫にも男としての自分への律儀を伝えていくものなのかもしれない・・・

    もうじきこの世から姿を消した父
                       一年の時が過ぎる
                                  その面影をしのびながら・・・


                                                     小林 一平